Ji Nan / サイナン/チーナン
済南の紹介
大阪関西-済南
山東航空が運航 羽田-済南 2016年8月より、山東航空による済南羽田の直行便が開通されました(SC8888)。 深夜便だけど。 |
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2007年、青島済南間、チャイナ版新幹線「動車」が開通され、 2012年、済南経由で北京上海間、高速新幹線「高鉄」が開通された。 新幹線 青島済南(2.5時間) 済南北京(1.5時間) 済南上海(5時間) |
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済南は山東省の交通中枢で、ら高速道路網が整備され、山東省全域及び隣県各都市と結んでいます。 高速道路を利用して、移動時間は次ぎの通り (バスの場合) 注: www.lailaichina.com 青島案内人 www.an-nai-nin.com は、 正規観光バス会社のバスのみ利用します。
済南空港-済南市内:35キロ、1時間
済南-維坊:300キロ、3時間
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地図 |
来来チャイナ 自作の山東省地図に(左下)、済南地図日本語版あります。 |
済
済南市(さいなんし、チャイナ語:?南市、英語:Jinan)はチャイナ人民共和国山東省に位置する副省級市。山東省の西部に位置し、省都として省内の通商、政治、文化の中心としての地位を占める。市中を黄河が流れ、南には泰山が控えている。人口のほとんどは漢族であるが、満族や回族なども居住している。
言語は北京語に近いが声調がひどく訛る山東方言がある。済南は北京料理のもととなった、やわらかくて塩辛い「魯菜」(山東料理)でも知られている。城内に「天下第一泉」と呼ばれる?突泉をはじめとする「七十二名泉」と呼ばれる水量の多く美しい泉水があるため、都市の別名を「泉城」という。豊かな自然と歴史資源を持つため、国家歴史文化名城に指定されている。
もともと河南省済源市を源流とする済水という川がこの地を流れていたため、その南に前漢時代に済南郡が置かれたのが名の始まりである。後に黄河の流れが変わったとき、済水の河川敷はそのまま現在の黄河下流となってしまった。
史記によれば、三皇五帝のひとり、舜は歴山(現在の千仏山)で耕作と狩猟をしたという。このため市内には舜にちなんだ泉や地名が多い。
実際にもここが黄河文明の中心の一つだったと見られる。1930年、市南部の章丘市龍山鎮から黒陶が発掘され、青銅器文化にいたる直前の龍山文化はこの地から名づけられた。現在の市街の下にある古代の都市跡は、その居住は殷のはじめ頃に遡ると考えられている。周代から次第に繁栄し、西晋時代には仏教が広まるとともに多くの仏教寺院がこの地に集中し、仏教の中心の一つとなった。
北宋時代には章丘に女流詩人・李清照と夫の金石家・趙明誠が住み『金石録』を編むなど、済南は詩や書画などの文化の都として知られた。清代にも蒲松齢、王士禎などの文人がここで活躍するなど、文人の都としての伝統は長く受け継がれた。またチャイナのみならず世界最古の広告チラシの印刷用の原版(銅でできた板に『濟南劉家功夫針鋪』とあり、現在上海博物館所蔵)が出土するなど、商業都市としても知られ、王朝の中でも収める租税の額が最高に近かった。明代からは山東省の省都となっている。
商業都市としての重要性は清代、チャイナ民国時代にも続き、近代以降は日本人を含む多くの外国人が商取引のため居住したが、民国の内戦中に日本人居留民が巻き込まれる済南事件が起こっている。日中戦争で大きく破壊されたが、戦後復興され、改革開放後は商工業都市として順調に成長している。
気候
済南は温帯の半湿潤大陸性気候に属し、四季がはっきりしている。春は乾燥し雨が少なく、夏は暑く雨が多く、秋はさわやかで、冬は乾燥して寒く平均最高気温は3.9℃ほどしかない。1月の平均気温は−0.5度、7月の平均気温は27.4度、年平均気温は14.7℃、年平均降水量は672.7mmである。
古跡・観光地
ほう突泉公園
七十二名泉の一つ、五蓮泉済南は雄大な黄河と、湖や柳の木々の景観の美しさで知られている。その美しさは杜甫ほか、清代まで1000年以上にわたり数多くの詩人や文人にたたえられてきた。
済南の三大名勝と呼ばれるのは以下の三つである。
ほう突泉(ほうとつせん):良質な水が大量に湧き出している。『春秋』にも「公(魯の桓公)及び齊侯(斉の襄公)は?に於いて會う」とある。乾隆帝の「天下第一泉」の額が飾られている。
千佛山:仏教の聖地。古くは舜帝が耕作をしていた場所とされる。隋代以降、山の各地の岩に仏像が彫られ、千仏山の名で呼ばれるようになった。唐代の大寺・興国寺が中心になっている。
大明湖:旧城内にあり、市内各地の泉からの水が流れ込む湖。多数の柳に囲まれており、楼閣や亭台が散在し古来多くの詩や文の舞台となった。
その他の名所には以下の様なものもある。
四門塔:歴城区柳埠村の神通寺の跡地にある石塔。
九頂塔:歴城区柳埠村の九塔寺の跡地にある石塔。
城子崖遺跡:龍山文化の遺跡。
大辛庄遺跡:殷代の遺跡。
劉台子遺跡:殷周の遺跡。
済南府学文廟:旧済南府にある孔子を祀った廟、宋代熙寧年間(1068年-1077年)に建設された。
山東省博物館
木魚石
1990年前後に、済南郊外、泰山の近くに発見された伝説の石、本草綱目にも記載。。カルシウムやマグネシウムなどミネラルとビタミンを多く含む「木魚石」は、水の中の人体に有害な成分や細菌を吸着し、キレイな活性ミネラルウォーターに変化させる力があると言われています。
見た目、特に綺麗でもなんでもありませんが。見かけとは関係ありません。効能にあります。なんとこの石は、防癌作用があるのです。効能書きによると、いろいろな微量元素がこの石には含まれており、それが、三時間置くことにより、このカップの中の水は、すばらしいミネラルウオーターになるということらしい。その水につけた花は、普通よりも数段長持ちし、普通の水と同じように生け花をすれば、効果は一目瞭然らしい。
産地は泰山へ行く途中、長清県張夏鎮、木魚石系列の製品。 販売場所:木魚石商城など。
平陰バラ
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特別手配のバラ視察(写真は地元平陰テレビ局 平陰バラ研究所)
バラはバラ科の落葉灌木で、その艶やか花と濃厚な香りで人々に愛されている。我が国では昔からバラを観賞花卉として庭園に植えてきた。済南平陰バラは600余年の栽培の歴史がある。清朝《続修平陰県誌》に《平陰竹節詞》があり、中には“隙地生来千万枝,恰如紅豆寄相思。玫瑰花放名如海,正是家家酒熟時。”(空き地に何千何万というバラが植えられ、あたかも紅豆で思いを表すのと同じようである。バラが咲き乱れるころはちょうど家々で酒が熟する時である。”と書かれてあり、清の時代はバラの栽培はすでに盛んになっていたようである。その後、戦火や天災人災のため、平陰が解放された時には、バラの年間生産量はわずか2.5万キログラムに過ぎなかった。
解放後、平陰バラの生産量は年々増加し、1956年には7.5万キログラムに達した。1960年平陰にバラ研究所の成立を機に、バラの生産を大いに推進した。1978年、全県のバラの栽培面積は4000亩に達して、中でも正玫瑰郷の栽培面積が最も大きい。平陰県のバラは花が大きく色が濃く、花弁が厚く香りが濃厚で、品質はひときわ優れていることで有名である。国内外各地のバラと比較すると、出油率は倍ぐらいである。
平陰バラは、観賞価値があるだけではなく、貴重な経済作物でもある。用途は広く、花は酒、糖、ジャム、エッセンスの原料になる。花と根部は漢方薬として、活気、血行をよくする、収斂の効用がある。平陰バラから抽出されたバラオイルは、国家によりチャイナ最良のバラオイルに選ばれており、日本、イギリス、フランスなどの10カ国家と地区に販売されている。これまで何回もバラ祭が催され、好評を得て、国内外の多くの観光客が訪れた。
明水香稻(明水の香米)
済南章丘明水鎮は全国的にも有名な米を栽培し、それは“香稻”と呼ばれている。《済南府誌》に“稲は元々この地で栽培されていなかったが、品種改良などの工夫を経て次第に栽培するようになった。その中でも章丘明水の米が最も良い”と記されている。ここの米は半透明でつやがあり、ご飯やお粥にすると、たとえ鍋ぶたをかぶせるとしても、香りがあたりいっぱいに広がり、“一軒の家でご飯を炊くと、十軒の家に香りがする”と言われてきた。そのご飯は口当たりが良く、すがすがしい香りは食欲を増大させ、味わえば味わうほど美味が尽きないので、済南の人々は俗に“香米”と呼んでいる。
歴史上では、種々の条件により制限があったため、生産量はきわめて少なく、非常に貴重なものとなっていた。明・清時代には、朝廷に納める貢品だけで、一般の人々は食べることができなかったと言われており、20世紀の40年代頃には一時絶滅の危機に瀕した。解放後、国家は香稲の研究を非常に重視し、遺伝の実験を行い、広面積且つ高収量の新しい品種の開発に成功した。現在では、市場で自由に買えるようになっている。
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